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年増の側弯症

「鈴木信正先生から、都内の病院で側弯症の手術をして頂いたのは1993年の夏、私は21歳であった。」 (女性会員)

 

鈴木信正先生から、都内の総合病院で側弯症の手術をして頂いたのは1993年の夏、私は21歳であった。側弯症手術の平均年齢は、12、3歳との事で、鈴木先生から私は何かにつけて「年増、年増」と言われていた。

 中学生頃から、私は母に「背中、真っ直ぐ」 「兄弟3人で、貴方が一番姿勢が悪い」と注意され続けていた。この頃から私の側弯症は進行し始めていたのだろ。けれど、外見的な症状も病気とまでは気付かず、学校の身体検査で注意される事もなかった。

 中学3年生の折、一度背中の軽い痛みがあり病院へ行った事があったが「姿勢が悪い為」という診断で済ませられていた。そのまま中学校から高校へと進ん だ。腰痛がこの頃から始まり、更に私は腰の位置が、左右ずれている事に気付き始めていた。高校生後半から両親は「外見から普通ではないのでは?」と心配し ていたようだが、生活にさし障りもなかったので受験が済むのを待った。

 短大一年の夏、19歳になっていた私はある病院で、中学生から二度目の診察を受けた。初めてレントゲンを撮った結果、側弯症であると診断された。その時 は、母も私も、まだどう言う事かよく判らないでいた。その先生が「このままで良いのではないか、これはこれとして受け止めたら?」と言うような事をおっ しゃった。

 ショックであった。両親も私も、何らかの矯正でもすれば背中は普通に治るものだろうと簡単に考えていたのだ。それより「病気です」と言われ、治すには “手術”という方法があるのに、“成長が終わったから手術は出来ないなんて” “私は、まだ19歳なのに!” “ずっとこのまま?、病院は何もしてくれな いの?” “少しも良くならないの?” 涙が後からこみ上げて来た。たまたま、その病院を辞めて整形外科病院を開業なさったという先生のチラシを見た。 「何か分かるかも知れない」と思い、母とその病院へ行ってみた。「側弯症と診断されたのですが・・・」と話した所その先生はレントゲンは撮らずに背中を診 てから、「私は専門が違うのです。でも、大学の時の先生で側弯症に関して日本の3本指に入る方がいらっしゃるから・・・」と当時病院にいらし た、鈴木信正先生を教えて下さった。その病院出身の看護婦さんもいらっしゃり、とても親切にそして熱心に勧めて下さった。急に道が開かれたようで、 少し希望が見えて来たように思えた。

 教えられたとおりに早速、その病院へ行った。診察を待っている間、先生のお書きになった[あかばね]の記事を読んでいるうち、側弯症がどういう病 気なのか、だんだん判ってきた。そして鈴木先生がどうも大変な先生らしい事も・・・。鈴木先生は私のレントゲンを見て静かに一言「私の娘だったら手術しま す」と、おっしゃった。そして後は本人次第という事だった。

 母と私は鈴木先生の「私の娘だったら」の言葉ですぐに手術を決心した。“手術できるのだ!!治るのだ!!”その日は家に帰って父と相談の上、手術をするという方向で話が決まった。

 また先生が、わざわざ私と同じ年齢の手術をした大学生の方を紹介して下さって母と体験談を聞く事が出来た。1年半の運動禁止、コルセット生活、傷跡の 事、手術に都合の良い季節の事など、色々伺った。私は専攻が保育科の為、手術後しばらく運動禁止では、体育の授業が出来ないという事で、イコール[卒業不 可能]という大変な問題点が出て来た。そこで4ヶ月後の次の診察の折、先生と相談した結果、短大を卒業してから手術をする事になった。

 私は同じ病気の中学生位の子と違い、成長期が終わっている為、急に進む事はないであろうと予想され、手術を1年半延期しても問題はないと言う事になったのだ。

 21歳の夏、様々な思いを抱えて入院した。以前43゜であった私の背骨は53゜になっていた。学校の2人の先生から「見えない所だか らって傷つけるなんて」 「一生、棒を入れて置くなんて生活に差し支える」 「手術をあまり期待するな」などと、反対されていた。母も大変怒った。私は密 かに、“秋になったら真っ直ぐになった背中を見せて驚かせよう”と悔しい気持ちを押さえた。

 私のベッドは、7階の窓際の東京タワーがよく見えるステキな位置であった。気分よく入院できた翌日は、同室の二歳年上のY.Oさんの手術日であった。鈴 木先生は私の年増に対して、Y.Oさんを大年増と呼ぶのだ。そんな私達を「93年夏の長女次女」と可愛がって(?)下さった。その、Y.Oさんはストレッ チャーで朝運ばれ、3日間私は彼女の空きのベッドを見て緊張していた。(彼女はリカバリールームにいた。)「次は私だ!」それを考えると夜も眠れず、見回 りの看護婦さんが来れば眠ったふりをしたものだ。そして手術当日の朝から両親や教会の牧師先生、すっかり仲良くなった病室の方々に見送られながら手術室に 運ばれた。“ウワー!この手術室ってテレビドラマで見るより広いなー” “私一人の手術なのに手術関係者の方ってこんなにいらっしゃるのかー”と思い、そ の後体にペタペタ心電図等の為のシールのようなものを付けられて、それから一度麻酔でむせた事だけ覚えている。

 手術前だというのに実に冷静であった。夕方5時、看護婦さんに顔を叩かれ目が覚めた。しばらくは“まださっき寝たばかりなのにー”と頭が回転せず [ボー]っとしていた。けれど、両親の白衣を着てマスクをしている姿を見て、“手術が終わってリカバリールームにいるんだ”と分かったそのとたん涙が溢れ 両親の顔がにじんで見えなくなった。そして体が“ピクリ”とも動かない事に気付いた。手が伸びない、首が動かない、私より小さな子も皆、これを乗り越えた のだと思いながらも“この先どうなるのだろう” “一生このままなのでは?”と弱気にもなった。

 術後3日目“一人で立てないなんて情けない”と思いながら、鈴木先生に立たせていただいた。そして術後4日目一般病室へ戻る事になった。自分で歩行器を 使って歩いて帰るようだが、私は貧血を起こし、ストレッチャーのお世話になった。そんな私も、術後7日目になんとか一人で歩行器を頼りに歩けるようになっ た。

 年増の私はピチピチの中学生より遙かに回復は遅かった。それでも歩き始めてからは、痛みもどんどん減って来た。希望が見えて来た。その後は先生から注意を忠実に(?)守り、若い子達と同じように術後5週間弱で退院出来た。

 退院後友達に会うと「背中、平らになったねー」 「イヤー、背中真っ直ぐの○○ちゃんて不自然!」 「○○ちゃんの授業態度って、秀才君(姿勢がよい) みたい」と言われた。背中には手術の後が出来たけど、良く考えればそれ一本だけで、私は三つも良くなった。“背中が真っ直ぐになっり腰の位置が左右対照に なった” “背中の上の変なふくらみが無くなった” “背丈は少し伸びた”そして母は「後ろ姿がすっきりしている」と何度も感心している。嬉しい。本当に 嬉しい。手術して頂いて本当に良かった。

 鈴木正信先生は、初めはとても怖そうな感じがして、親子でおそるおそる“申し上げる”といった風であったが実際はとても温かく優しい先生だった。(他の 方々も多分同じだと思う。)入院中の回診は皆、とても楽しみにしていたし、先生が声が段々近付いて、ついに私たちの部屋に入っていらっしゃると、それだけ でもう辺りが“パッ”と明るくなってしまう。そして笑い声が上がり、大いに元気付けられる。こんな素晴らしい先生が、これからもずっと診察してくださるな んて、本当に感激してしまう。どうぞ先生、これからは、自分の為にもう無理をなさらないで、お体を大切にしてください。私達は何より、心から信頼出来る先 生から手術をして頂いて、これ以上の事はない!看護婦さんや、お茶の世話をしてくださった方、皆とても細やかに良くしてくださったし、同室の方々やその家 族、少し離れた部屋の他の病気の年長の方々とも親しくなった。お見舞いには、思いがけない方々まで大勢来てくださったりカードを頂いたりした。

 今、思い返してみると辛い事も色々あったけれど、数えきれない程の“恵まれた手術”であったのだ。多くの方々への、計りきれない程の感謝の気持ちをどう やって表そう。直接には、これから手術を受ける方々に、私がして貰って嬉しかったように、励まして行けたらと思う。そして、どのような道に進むにしても私 はこの体である。今は、生き生きと前向きの毎日を送って行く事が喜んで頂ける最も大切な事なのかなと考える。

 “真っ直ぐになった背筋をゆっくりと伸ばして”

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